「いまだに南太平洋で神話として語り継がれているそんな美味な料理に《チキンの地獄のハーブ添え》がある。誰にも真似できない匠の腕で、ユルゲンがオーヴンで焼いたこの料理は、まずチキンを切って、それからみごとな味つけして下ごしらえする。味つけはシャルドネにヒマワリ油、パセリ、ローレル、グリーン・アニスの挽いた種、マダガスカル胡椒、そしてセロリ塩少量の中に漬け込むのだ。(中略)この料理に熱を上げたのが、マル・デル・プラタの聖堂主任司祭ベルナルド・メディエタ師。彼はこのチキンを味わうために、毎週金曜日の夜にはテーブルを予約していた。ただし聖週間だけは話は別で、聖金曜日の前夜ミサをあげながら、断食をしなければならない翌日の慰めに唇を舐めていたものだ」
と、読んでたら、お腹がグーっとなりそうだ。この小説には、こうした香しい料理の湯気が漂ってきそうな料理の記述がそこかしこにちりばめられている。しかし、こうした“うまそうな”記述は読み手の感覚を麻痺させ、いつしか、この物語のエンディングの目撃者となったときに困惑し、人の感覚に対する恐怖を色濃く植え付けることになるのだ。しかしそれは恐怖の姿を借り、読者を欺く、ある種の壮大なギャグのようでもあるのだけども。
本作はアルゼンチン、ブエノスアイレス州の港湾都市マル・デル・プラタのレストラン“アルゼンチン食堂”の、20世紀初頭の縁起から、1996年までの記録である。それは言い換えれば、本作冒頭にて世にもおぞましい猟奇的な描写のなかから生まれでる天才料理人、サセル・ロンブローソへと帰結する、数世代に渡る料理人たちの記録でもある。
19世紀末、イタリアから移り住んだ双子のカリオストロ兄弟にこの物語ははじまる。彼らはとあるホテルの厨房で知り合った料理人、マッシモ・ロンブーソから料理のさまざまな英知を授かり、共に研究しすばらしい料理の方程式を編み出して行く。その方程式を兄弟たちがまとめ、さらにマッシモがブラッシュアップすることで『南海の料理指南書』という私家版のレシピ本を完成させる。それは彼らカリオストロ兄弟が建て、マッシモが継いだ“ブエノスアイレス食堂”の、人々を魅了して止まない味の秘密となる。
そして、カリオストロ、マッシモから数世代を経てサセルの誕生へと進む物語は、“ブエノスアイレス食堂”の人々がみな悲劇の因果に飲み込まれていたことを明していく。その悲劇はカリオストロとロンブローソというふたつの血族+αによって展開され、時代を追いかけ、事細かく描かれる。“ブエノスアイレス食堂”の人々は、イタリア移民という出自や彼らをとりまく世界情勢、アルゼンチンの社会や政治的情況によって大きく翻弄されるのだ(そういう意味では、アルゼンチンの近現代の歴史小説のような感覚もある)。そこには、第2次世界大戦以前の赤狩りや大戦後のペロン政権、エヴィータの時代、そしてその後の軍事クーデターといった情況が大きく関係してくる。これらはほぼすべて彼らを悲劇へと導く充分な原因となっていく。物語は“ブエノスアイレス食堂”をとりまく人々を描く、大河ドラマとなって流れていく。
この物語の本当の主人公とも言えるサセルの誕生を迎え、物語は一気にヒートアップしていく。ある種の断絶の後、件の指南書が最上の料理を追い求める、その行為に魅了された彼らの子孫、若きサセルによって、その誕生から半世紀以上経って復活させられる。それはまるで妖力のような料理の力を彼に授けることになるのだ。この指南書の魔術のようなレシピは、最終的にサセルを狂気へと差し向ける。
サセルに連なる人々の悲劇を考えれば、この指南書が悲劇の因果を“ブエノスアイレス食堂”に呼び込んでいるかのようですらある。
そうだ、ひとつ重要なことを忘れていたが、この本を紹介する上で書かなくてはなるまい。この小説を書いたのは、アルゼンチン・ノワールの旗手とも言える作家。ノワールとは、いわゆるフレンチ・ノワールに代表される、犯罪や暴力といった、人間や社会のダーク・サイドを描いたものだ。そう、この小説も全体の体裁としてはノワール小説なのだ。言ってしまえば、この物語は最終的に末代のサセルのダーク・サイドに飲み込まれることになる。もちろん、本作の冒頭を読めばそれは一目瞭然なのだが、その影を照らして消してしまうほど中間部は別の輝きを放っている。
そしてサセルのダーク・サイドのなかを猛スピードで駆け抜けるエンディングは……。
この小説は一気に読み進めることをオススメします。
「おすぎです。絶対に素早く最後まで読みなさい! 驚愕のエンディング!」的な。
いや、すぐに読めるって。
ああ、やだなぁ。また腹へってきた。
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