『顔のない軍隊』 エベレオ・ロセーロ:著
――おれのなかではふたつの事件がばかげた形で結びつき、たびたび思い起こされる。まずは死が来て、お次は裸、と――
この小説の語り手はとある南米国の山岳地帯の小さな村に住む老夫婦の夫だ。なかなか茶目っ気のあるじじいで、となりのブラジル人妻の行水姿を眺めて、もんもんとするようなスケベじじいだ。そんなじじいが紡ぐ物語は、かなりショートカット気味にその筋を言えば、彼の妻とののほんとした日常が、理不尽な暴力、それにただただ巻き込まれ一気に崩壊していく。そんな話だ。
政情の不安定な南米では一昔前まで、多くの人々が失踪していた。社会主義を封じ込めんとするCIAの傀儡のような右派政権の軍や警察、それに反旗を翻す左派ゲリラ(もしくは時代や国のよってはその逆もありうる)。さらには本作で描かれるように、さらにその対立に加えて、左派ゲリラに対抗する自警団から発した保守系民兵も加わる。 内戦という、国軍の正規兵同士ではない戦闘、そのカオスティックな暴力の拮抗状態において、悲劇的な暴力に理不尽に巻き込まれるのは市井の人々だ。その村では単に生活しているだけで、多くの人々が失踪する。なんの罪もない人々が逮捕/誘拐され、時には政治的な粛正や、身代金目的の資金源に。さまざまな力関係の下に、その見せしめのために拉致さられる。それは日常生活と常に隣り合わせであり、ある日、ちょっとした散歩から帰ってくるとこつ然と家族や隣人が消えてる。そんな世界を描いている。無論彼らはレジスタンスに参加していたわけでも、政治活動をしていたわけではない。子供の未来を信じ、妻を愛し、親愛なる隣人と言葉を交わす、そんな日常に突然土足で理不尽な死神が顔を出す。創造力を少しでも働かせれば、それはある種の決意や諦念が支配する戦場よりも、とても、とてもバカげていて、とても恐怖に満ちた残酷な世界だということがわかるはずだ。
拮抗する三つ巴の軍隊の、どこから発せられるかわからない、顔の見えない暴力が日常を支配していく。
本作で、この理不尽な暴力をリアリティを持って描き出しているのは、とてもとても悲しいユーモアだ。それは決して、その過剰さ故に暴力がコミカルになってしまう北野武の『アウトレイジ』のような部類のユーモアでもないし、暴力を司る人間の醜態をあざ笑う『モンティ・パイソン』のようなユーモアでもない。ここで言う“悲しいユーモア”とは、暴力がそこになければ、とても幸福な日常の象徴とも言えるような単なるジョークだ。
主人公のじじいは、いつもちょっとしたエロとちょっとした笑いを日常で話したい、そんな男だ。しかし、そんな彼の日常を、突然、暴力がズタズタに切り刻んで行く。主人公はそんなところにいて、抗うこともどうすることもできず、無力感のなかで、減らず口のようないつものユーモアを思い浮かべ、口にすることしかできない。日常を取り戻そうと、いや、もうすでに変わり果てた目の前の現実を否定するためのユーモアから、そして最後にはそのバカげた暴力の理不尽さが、ユーモアの世界だけにあった理不尽さを軽々と飛び越え現実となる。暴力と彼のユーモア=日常、その間の落差から来る悲しみ、そしてそれをとりまく無力感がひしひしと伝わってくる。それらを補完しようとする読み手の想像力は、凄まじいリアリティと恐怖をイメージとして引き出してくる。想像力が欠如しているストレートなお涙頂戴話が生む悲壮感とは雲泥の差のリアリティを持つ、そんな恐怖がそこには横たわる。まさに絶望だ。作者は、この悲しきユーモアがあるからこそ強調される、リアルな絶望によって暴力を告発していく。
ガルシア・マルケスの再来などとも言われている、コロンビアの作家。彼の著書は訳出されているものが本作と夏前に出た『無慈悲な昼食』がある。どちらもやはり、南米の、ある種の内戦状態での理不尽な暴力がひとつ作品のキーになっている。まったく別の話ではあるが、時間軸的に本作が先で、『無慈悲な昼食』は時代的にその後の話という感覚だろう。とても良い作品なのでそのうち書くが、後者は簡単に言えば、拉致や失踪によって生まれた孤児たちが成人した後の話だ。そちらもぜひとも。