2012年9月9日日曜日

『顔のない軍隊』


『顔のない軍隊』 エベレオ・ロセーロ:著


――おれのなかではふたつの事件がばかげた形で結びつき、たびたび思い起こされる。まずは死が来て、お次は裸、と――

 この小説の語り手はとある南米国の山岳地帯の小さな村に住む老夫婦の夫だ。なかなか茶目っ気のあるじじいで、となりのブラジル人妻の行水姿を眺めて、もんもんとするようなスケベじじいだ。そんなじじいが紡ぐ物語は、かなりショートカット気味にその筋を言えば、彼の妻とののほんとした日常が、理不尽な暴力、それにただただ巻き込まれ一気に崩壊していく。そんな話だ。

 政情の不安定な南米では一昔前まで、多くの人々が失踪していた。社会主義を封じ込めんとするCIAの傀儡のような右派政権の軍や警察、それに反旗を翻す左派ゲリラ(もしくは時代や国のよってはその逆もありうる)。さらには本作で描かれるように、さらにその対立に加えて、左派ゲリラに対抗する自警団から発した保守系民兵も加わる。  内戦という、国軍の正規兵同士ではない戦闘、そのカオスティックな暴力の拮抗状態において、悲劇的な暴力に理不尽に巻き込まれるのは市井の人々だ。その村では単に生活しているだけで、多くの人々が失踪する。なんの罪もない人々が逮捕/誘拐され、時には政治的な粛正や、身代金目的の資金源に。さまざまな力関係の下に、その見せしめのために拉致さられる。それは日常生活と常に隣り合わせであり、ある日、ちょっとした散歩から帰ってくるとこつ然と家族や隣人が消えてる。そんな世界を描いている。無論彼らはレジスタンスに参加していたわけでも、政治活動をしていたわけではない。子供の未来を信じ、妻を愛し、親愛なる隣人と言葉を交わす、そんな日常に突然土足で理不尽な死神が顔を出す。創造力を少しでも働かせれば、それはある種の決意や諦念が支配する戦場よりも、とても、とてもバカげていて、とても恐怖に満ちた残酷な世界だということがわかるはずだ。

 拮抗する三つ巴の軍隊の、どこから発せられるかわからない、顔の見えない暴力が日常を支配していく。

 本作で、この理不尽な暴力をリアリティを持って描き出しているのは、とてもとても悲しいユーモアだ。それは決して、その過剰さ故に暴力がコミカルになってしまう北野武の『アウトレイジ』のような部類のユーモアでもないし、暴力を司る人間の醜態をあざ笑う『モンティ・パイソン』のようなユーモアでもない。ここで言う“悲しいユーモア”とは、暴力がそこになければ、とても幸福な日常の象徴とも言えるような単なるジョークだ。
 主人公のじじいは、いつもちょっとしたエロとちょっとした笑いを日常で話したい、そんな男だ。しかし、そんな彼の日常を、突然、暴力がズタズタに切り刻んで行く。主人公はそんなところにいて、抗うこともどうすることもできず、無力感のなかで、減らず口のようないつものユーモアを思い浮かべ、口にすることしかできない。日常を取り戻そうと、いや、もうすでに変わり果てた目の前の現実を否定するためのユーモアから、そして最後にはそのバカげた暴力の理不尽さが、ユーモアの世界だけにあった理不尽さを軽々と飛び越え現実となる。暴力と彼のユーモア=日常、その間の落差から来る悲しみ、そしてそれをとりまく無力感がひしひしと伝わってくる。それらを補完しようとする読み手の想像力は、凄まじいリアリティと恐怖をイメージとして引き出してくる。想像力が欠如しているストレートなお涙頂戴話が生む悲壮感とは雲泥の差のリアリティを持つ、そんな恐怖がそこには横たわる。まさに絶望だ。作者は、この悲しきユーモアがあるからこそ強調される、リアルな絶望によって暴力を告発していく。

 ガルシア・マルケスの再来などとも言われている、コロンビアの作家。彼の著書は訳出されているものが本作と夏前に出た『無慈悲な昼食』がある。どちらもやはり、南米の、ある種の内戦状態での理不尽な暴力がひとつ作品のキーになっている。まったく別の話ではあるが、時間軸的に本作が先で、『無慈悲な昼食』は時代的にその後の話という感覚だろう。とても良い作品なのでそのうち書くが、後者は簡単に言えば、拉致や失踪によって生まれた孤児たちが成人した後の話だ。そちらもぜひとも。


2012年7月10日火曜日

あ、っという間に更新し忘れてました。
すいません、もうすぐ再開します。
って、誰も見てねぇからいいか。

CRASSの本が面白かったです。
あと相変わらず南米もの。
どれもここ30年の軍事政権の影を背負った小説なんで、たいてい誰かの失踪&誘拐の話ばかりではあるんですが。
ではまた。

2012年4月16日月曜日

『残念な日々』

愛すべき呑んだくれたち

 
『残念な日々 (新潮クレスト・ブックス) 』
ディミトリ フェルフルスト:著
長山さき:訳


  ふとワイワイと酒を飲んでいたら、なにかまじめに物事を考えて捉えてみたくなった。じゃあ、目の前のことを考えるのが一番良いということで、酒を飲むという行為自体を本気で考えようと思ったその刹那、チューハイの泡を見ていたら、とてもうまそうで飲んでしまった。繰り返すこと数十回。考えなどはまとまらぬまま、気づいたら、目の前の友人が放つキーワードを拾って、50倍のホラ話にして返している。記憶はここまで。先へ先へと伸びて行く、ホラ話がどこで着地したのかもわからない。  次の日に残されるものと言えば、だだっ広い荒野にいくつかのおもしろそうなVHSテープ(デッキなしで再生不可)が散乱しているだけ。例えるならそんな状況だけが、毎回地層のように積み重なっていく。自分の場合、そこに色恋沙汰が生まれるわけでも、なにかお金を生み出すこともほとんどない。ただただ、酒を飲むという行為そのものが愛しい光を放っていて、そして1杯ごとで人生が狂っている。
  この小説は、まさにそんな愛おしい光に魅入られた男たちの話。ベルギーの片田舎、母親に愛想を着かされた父子は、飲んだくれオンリーの父兄弟、そして彼らを愛する心底優しい母の住む実家へと居を移す。その目の前で繰り返されるのは、父や伯父や酒飲み仲間の、とことん突き進む酒飲み譚(極めつけは、飲んだ量で双六のようにして進む泥酔ツールドフランス。勾配のきつい坂はキツい酒!)。まぁ、常識的に考えれば無駄なことのばかりだが、それを愛おしいものとする、あたたかな目線がそこには書き込まれている。それは彼らを見守る年老いた母親(まぁ人によっては不幸にしか見えないかもしれない)や、父や伯父たちの団結する家族愛といったところだろうか。残念だが温かい。それ故か、「残念な日々」というタイトルは、一見、その伯父たちの無茶苦茶な酒飲み話のことかと思えば、最後まで読むと、むしろそこから足を洗い、クールに生きることを選んだ主人公の後悔のブルースなのかもと思わされてしまう。温かくてハチャメチャで楽しい、そして悲しい。

2012年3月16日金曜日

『舟を編む』



『舟を編む』
三浦 しをん:著


 たまには「そこそこなんだけど、いまいちだなぁ」なんて本も(いやこういうの書かなくて良いとは思うんだけど、こういう本はあんまり紹介しないと思うって宣言的なのも含めて)。

 ストーリーはこうです。定年を控えた職人気質の辞書編集者が登場、そして彼が企画、立案した新しい中型の国語辞書(いわゆる広辞苑サイズ)を作り上げるため、社内で後継者探し→目をつけたのは、すっとぼけすぎて営業部ではお荷物となっている社員→そんなすっとぼけ社員が辞書作りで意外な才能を発揮し、職人編集者がみっちりと教え込み……。

 サラっと書きましたが、そんなお話。
 辞書編集という仕事そのものに興味をそそられ、わりといろんな書評でも評判良かったので読んでみようと(たしか、同じ日に買ったのが木内昇の名作『笑い三年、泣き三ヶ月。』だったのもあれだったな)。
 で、たしかに話のはこびは面白いし、スルスルと読めてしまう文章なのだけど、なんだか僕にはなんとも味気がなくて……言ってしまえば、よくありがちな“珍しい職業の裏側”と”ラヴコメ”を合体させた仕事系マンガを読んでいるようで(逆に言えば、そういったマンガ好きが小説の入り口として読むには良いのかもしれません)。
 まず、とにかく、登場人物たちは癖があるようであまり癖が無く、屈託というか葛藤があまり見えない。そう、主人公のおとぼけ社員をとりまく状況に関してもなんだかスルスルと進みすぎて、予想通りの展開というか。だから「え! それどういうこと?」と思って読みたくなるようなところがない。例えばですよ、主人公のおとぼけっぷりがあまりにも逸脱しすぎてて、どうしょうもないジミー大西レベルなんだけど、なぜか周りの人間が愛着を持って助けてしまうとかいう話ならまだアレですが、この主人公、仕事も恋愛も「かわいい」程度のおとぼけ&正直な部分が魅力となって、うまく成功する方向へと回ってしまうわけで、まぁ、そのあたりもラヴコメ漫画感があるんですね。
 辞書編集という途方もない大事業に関するいろいろも描かれてるんで、その部分を満たそうと思って買ったという点ではアリなんですが。
 あとは、辞書なんてものは1年やそこいらでできるものではないので、話のなかでは結構な月日が流れます。でも、それがかなりサラっとスキップして流れていくんですね。時に重みがないっていうのは、怖いですねぇ。サラっていうのは、なんて言えばいんでしょう。例えば、スキップしたあとの時代に「え、前の時代に書いてないけど、この人、この間にどうなったの?」的な良い意味での話を読ませるトリックも無く、あったとしても速攻で説明され回収されていくというのが続いていくんでありますですよ。「こいつアレかな?」と思って、読み進めたら「えええ、アレでもないんだ!」とかではなく、「ああ、やっぱりそうか」ってな納得具合です。逆に言えば、そういった仕掛けなしに読ませるという意味ではエンターテインメントとしての文章の力というのはあるのではないでしょうか。

 って奥付見たら『CLASSY』の連載小説でやんの。
 おしゃれOLターゲットの小説を100キロ前後30歳彼女なしなんてのが読んだらいけませんね。
 いや、でも本当にサラっと読ませてしまうようなうまさはあると思うので、とりあえず小説なんて読んだことない、なんて人にはおすすめと言えばおすすめです。『CLASSY』がいきなり最初から『紙の民』読んで大号泣とか、そりゃ僕だって嫌ですからね(そういう美女OLがいたらすぐにでも紹介してください)。





2012年3月10日土曜日

『ブエノスアイレス食堂』




「いまだに南太平洋で神話として語り継がれているそんな美味な料理に《チキンの地獄のハーブ添え》がある。誰にも真似できない匠の腕で、ユルゲンがオーヴンで焼いたこの料理は、まずチキンを切って、それからみごとな味つけして下ごしらえする。味つけはシャルドネにヒマワリ油、パセリ、ローレル、グリーン・アニスの挽いた種、マダガスカル胡椒、そしてセロリ塩少量の中に漬け込むのだ。(中略)この料理に熱を上げたのが、マル・デル・プラタの聖堂主任司祭ベルナルド・メディエタ師。彼はこのチキンを味わうために、毎週金曜日の夜にはテーブルを予約していた。ただし聖週間だけは話は別で、聖金曜日の前夜ミサをあげながら、断食をしなければならない翌日の慰めに唇を舐めていたものだ」

 と、読んでたら、お腹がグーっとなりそうだ。この小説には、こうした香しい料理の湯気が漂ってきそうな料理の記述がそこかしこにちりばめられている。しかし、こうした“うまそうな”記述は読み手の感覚を麻痺させ、いつしか、この物語のエンディングの目撃者となったときに困惑し、人の感覚に対する恐怖を色濃く植え付けることになるのだ。しかしそれは恐怖の姿を借り、読者を欺く、ある種の壮大なギャグのようでもあるのだけども。

 本作はアルゼンチン、ブエノスアイレス州の港湾都市マル・デル・プラタのレストラン“アルゼンチン食堂”の、20世紀初頭の縁起から、1996年までの記録である。それは言い換えれば、本作冒頭にて世にもおぞましい猟奇的な描写のなかから生まれでる天才料理人、サセル・ロンブローソへと帰結する、数世代に渡る料理人たちの記録でもある。

 19世紀末、イタリアから移り住んだ双子のカリオストロ兄弟にこの物語ははじまる。彼らはとあるホテルの厨房で知り合った料理人、マッシモ・ロンブーソから料理のさまざまな英知を授かり、共に研究しすばらしい料理の方程式を編み出して行く。その方程式を兄弟たちがまとめ、さらにマッシモがブラッシュアップすることで『南海の料理指南書』という私家版のレシピ本を完成させる。それは彼らカリオストロ兄弟が建て、マッシモが継いだ“ブエノスアイレス食堂”の、人々を魅了して止まない味の秘密となる。
 そして、カリオストロ、マッシモから数世代を経てサセルの誕生へと進む物語は、“ブエノスアイレス食堂”の人々がみな悲劇の因果に飲み込まれていたことを明していく。その悲劇はカリオストロとロンブローソというふたつの血族+αによって展開され、時代を追いかけ、事細かく描かれる。“ブエノスアイレス食堂”の人々は、イタリア移民という出自や彼らをとりまく世界情勢、アルゼンチンの社会や政治的情況によって大きく翻弄されるのだ(そういう意味では、アルゼンチンの近現代の歴史小説のような感覚もある)。そこには、第2次世界大戦以前の赤狩りや大戦後のペロン政権、エヴィータの時代、そしてその後の軍事クーデターといった情況が大きく関係してくる。これらはほぼすべて彼らを悲劇へと導く充分な原因となっていく。物語は“ブエノスアイレス食堂”をとりまく人々を描く、大河ドラマとなって流れていく。
 この物語の本当の主人公とも言えるサセルの誕生を迎え、物語は一気にヒートアップしていく。ある種の断絶の後、件の指南書が最上の料理を追い求める、その行為に魅了された彼らの子孫、若きサセルによって、その誕生から半世紀以上経って復活させられる。それはまるで妖力のような料理の力を彼に授けることになるのだ。この指南書の魔術のようなレシピは、最終的にサセルを狂気へと差し向ける。

 サセルに連なる人々の悲劇を考えれば、この指南書が悲劇の因果を“ブエノスアイレス食堂”に呼び込んでいるかのようですらある。

 そうだ、ひとつ重要なことを忘れていたが、この本を紹介する上で書かなくてはなるまい。この小説を書いたのは、アルゼンチン・ノワールの旗手とも言える作家。ノワールとは、いわゆるフレンチ・ノワールに代表される、犯罪や暴力といった、人間や社会のダーク・サイドを描いたものだ。そう、この小説も全体の体裁としてはノワール小説なのだ。言ってしまえば、この物語は最終的に末代のサセルのダーク・サイドに飲み込まれることになる。もちろん、本作の冒頭を読めばそれは一目瞭然なのだが、その影を照らして消してしまうほど中間部は別の輝きを放っている。

 そしてサセルのダーク・サイドのなかを猛スピードで駆け抜けるエンディングは……。

 この小説は一気に読み進めることをオススメします。
「おすぎです。絶対に素早く最後まで読みなさい! 驚愕のエンディング!」的な。
 いや、すぐに読めるって。

 ああ、やだなぁ。また腹へってきた。




2012年3月8日木曜日

『地上の飯――皿めぐり航海記』






『地上の飯――皿めぐり航海記』
中村和恵:著(平凡社)

 いわゆるグルメ・エッセイとか、紀行文とかなんですが、あまり海外旅行や、グルメという言葉に無頓着でピンとこない自分にとって、普段だったらあまり読もうと思う部類の本ではないのだけど——あんな体型をしていておかしいが実はわりと飯には無頓着で、なんでも食えるのだ、だからこそ太る。しかし、この本は、とある週刊誌での書評で購入(小説以外はわりとそのルートが多い)、読み始めてから数時間で一気に読み終わってしまうほど面白かった。

 著者は比較文化や文学、翻訳などを主とする大学教授のようで、これまでも詩集や翻訳書などをいくつか出している人のようだ。まぁ、他の本はもちろん読んだことはない。
本著では、カリブ海にうかぶドミニカでの話から、タヒチや幼少期に過ごしたというロシアや東欧諸国、そして日本の食文化までさまざまな地域を巡り、“食”を媒介に、文化や風土、そこに生きる人間の感性など、あれやこれやと描いている。対象となる食物/食の事情は、ドミニカの魚汁から、インドの蒸しパン、フランス料理、パンの実、幼虫、そしてときにはカニバリズム(もちろん体験の話ではない)から、つらら、そして昨今のくじら問題や食物の放射能汚染まで多岐にわたる。上記のような多彩な食物を前にして、書かれているテーマは様々だが、そのどれもがなんとも愛おしい視点というか、食べ物に対する愛情、いや食べるという行為の楽しさがひしひしと伝わってくるような視点なのだ。それこそ本著のあとがきのように書かれている「食いしん坊であることについての言明」ということなのだろう。そう、そのユーモラスでチャーミングな視点は「食いしん坊」という言葉が相応しい。しかしはっとするような視点を食物を通して投げかけてくるのだ。

「匂いをかぐのは食べることなく食べ物を試しているのだ」
(「皿の上の雲――序」より)

 とか、まぁ、そういった金言がナイスなリズムに乗って、ポロポロと文章から溢れてくるのだ。

 そして極めつけというか本著で最もお気に入りなのは「フリカケの存在意義」という話。
 これは日本の食文化に無くてはならない“フリカケ”について、外国人から「どうやって食べるもの? というかなに?」というような問いから発したエッセイなのだが、これがクスクスと笑いつつ、海外における日本の食文化についてうなずきつつと読めてしまう面白さがある。
 そうそう、この本の魅力をもうひとつ。これは忘れてはならない。文学者の著者らしく、この本の食物の話のなかのほとんどの部分には、その食べ物への思考の旅路(もしくはその逆も)となるべくさまざまな文学作品との出会いが用意されていることだ。文学作品に出てくる食べ物、直に接した現地の現代作家とその背景との邂逅、と、さまざまな経路が出てくるが、そちらの“字”の道を楽しむのもまたおもしろい。

 読者と語らうような、その柔らかな文体もいい。



2012年3月3日土曜日

『短くて恐ろしくいフィルの時代』



ジョーン・ソーンダーズ:著/岸本佐知子:訳

 体裁は140ページにも満たない短編小説。テーマとしては、民主主義、虐殺や差別、独裁といった、どうしてもいまだに人間が解決できないでいる“業”……と書くと、もう読んでるのも辛くなるような、ちょーーーー重い小説のようですが、小説そのものはまったく違います。それはあくまでも最終的な教訓でありまして、小説自体はそこへと至る寓話と申しましょうか。カラカラに乾いたユーモアで彩られた小気味いいリズムの物語がするっと終わっていきます。抜群におもしろいんで、無思慮な読解力がなさすぎる人が読んだら、ゲラゲラ笑って終わっちゃうんじゃないかってそのぐらい(それはバカにし過ぎ)。エンターテインメントといいますか読むという快楽においても充分な強度と軽やかなバネを持っております。

 舞台はどこか、おそらく地球でもないどこか、そこには広大な外ホーナーとその内側に小国、内ホーナーが存在する土地。内ホーナーがどのくらい狭いかと言うと、人がひとり入れる程度という、バカのような小さいな国なのだ(ね、設定おかしいでしょ?)。もちろん内ホーナーも国というくらいだから、内ホーナー人は複数人いる。彼らはどうしているかというと、ある種の共同管理地となっている内外ホーナーの国境地域に待機し、順番に自国に出入りしているという設定(やっぱりおかしい)。登場“人”物たちもなんか小学生ががらくたで組み立てたようなポンコツ工作みたいな“人”だし(まぁ、コレは差別とか人種のアレだよなと考えることも可能)。
 ここで、あるささいな事件が起き、外ホーナー人のフィルという人物が暴走し、外ホーナーを掌握、国境を巡るいざこざとともに内ホーナー人を迫害していくことになる……と、あまり書くとネタバレになりそうな短編ですが、この程度なら書いてもへっちゃらなぐらいに、その表現は奇知に富んだものであります。

 その話の上手さに転がされた読んでしまうと、「よくよく考えたら」と恐怖とともに、冒頭のようなテーマが頭を襲ってくる。その感触としては星新一あたりのショート・ショートを思い浮かべて貰えれば良いかもしれない(ちょっと違うけど)。
あの弁護士市長とかあの都知事閣下とかが口にする恐ろしくバカらしい論調。あれに踊らされること、彼らがある地域の首長であることがどれだけギャグにもならない、いやむしろ笑えるほどひどい話なのかっていうのをそのまま小説にしたような話ではないかと思います。
  これ、お涙頂戴な命を大切に的な話とか、悲惨さを伝えて抑止力とするような話よりも、よっぽど差別や政治といった物事を身近に理解できる教材になると思うんだよな。「してはいけない/しなくてはいけない」という決定事項を教え込む、のではなく「“なぜ”してはいけない/“なぜ”しなくてはいけない」というのを理解させる手助けというか、こういう話にしておいて、その構造から理解するというのがよっぽど重要だと思っちゃったりするわけで。それこそ中学生あたりなら理解できるレベルの話だし、しかもおもしろおかしく読めることを考えれば、まじでそういった教材にぴったりだと思いますよ。お父さん、お母さん、どうですか1冊。 
 もちろん、大人は読んで笑って、考えて当たり前っていう大前提でありますが。

 てか岸本佐知子訳なんだから、間違いないに決まってるだろ!